予定通りに動けない
水泳行こうとしたり、
読書しようと決めてた本とか、
買い物とか、送る予定のものとか、
なんかね、溜まってしまう。
後回し後回しにしてしまう。
時間管理が下手、というだけじゃないと思う。
たまたま特別に忙しい時期だから仕方がない、等と言い訳している自分がいる。
でも本当にそれだけのせいだろうか。
一度に多くのことを消化しようとしているのかもしれない。
人より遅れている分を取り戻したいという焦りから、
あれも、これもとつまみ食いしては食べ残している状態であろう。
その結果、お金と時間も無駄にしているのかもしれない。
私もアラサーになって脱ヒキの為に色々するようになって気づいてきたこともある。
どんな純粋そうに見える人でも、平気で嘘をつくしいわゆる処世術というものを誰しも巧みに身につけているということ。
そしてみな人のこと、人の悩みなど大して気にはせず、自分のことにだけ時間を徹底的に使うようにしている、ということ。
ひきこもりが家の中で延々と繰り返しているシミュレーションや社会批判や議論の類は社会人の中においてはあまり意味がなく、むしろ彼らはそういったものの総体を体で知っているのだと思う。
資格を持っているということや、特別なスキルとか、そういった形で表される能力のようなものは大して意味をもたず、人柄や特定の人に正しく気を遣えるセンスや、空気の読み方など、そういった社交術を知っている人こそがのびのびと仕事をこなしている。
そして決定的に勘違いしていたことは、日常を日常として継続的に生きていける人たちこそ社会的にも、人間関係的にも意義深いということ。
私というイレギュラーは、社会化する際に、そういった人々に埋没すべきか、それとも他に自分の為になる生き方があるのか、選択しなければならない辛さを持っている。
そういった理由で自己のアイデンティティがゆらぎ、結果として自分がどこへ向かうのか、何に熟達すればいいのかがわからなくなっているのだ。
みな努力している、と思う
どんなに不器用な人でも、どんなに要領の悪い人でも、賢明に一つのことを磨き続けて努力し続けたらどうなるだろうか?
要領が良くて、器用な、でも性格の悪い人より慕われるし、より高度なスキルを習得しうると思う。
何年も同じ業務をこなしていればその分野のプロフェッショナルになる。
当然、途中から入った人では細かい点まで覚えるのには時間がかかる。
あなたに一番適したシゴト、あるいはスキルはなんだろうか?
色々なことに手を出して挑戦してみるべきである。
その時間を作るためには少し周りに迷惑をかけてもいいと思う。
たまたまある程度努めて人より上達したからといって、本当にやりたくもないことをただ「ある程度できる」というだけで延々と続けるなど、考えたくないだろう。
人間は一つの分野で誰もが叶わないほどに熟達する可能性を与えられている。
どういった分野でどういった内容のシゴトになるかはわからないし、その人にしかできないシゴトがあるはずだ。
そういったものを発掘し自分の手にする喜びを噛みしめる幸せのためにも、とにかく少しでもきになったコトには手を出す時間を作ってやり、頭を下げ経験値を稼いでみることだ。
その分野の人の熟達した技を観察してみるのもよい。
それが身につくまでに多くの時間を費やしていることと思う。
そういったものを見て覚えられる(覚える意欲が沸く環境に身をおく)ということは貴重な時間であり、貴重な機会である。
実体験の大切さ
頭で分かってるつもりというのが厄介者だ。
自分はどちらかと言えば理屈っぽい方だし、自分が体験していないことをさも体験したかのように話すことはできる。
思考に耽ることもよくある。
脳内であれやこれやとシミュレーションもする。
雑学本や専門書をよく読んでいた時期もある。
物事の要旨をつかむのは得意だと思っている。
人間はそうシンプルじゃないから予想されたものと実際のものの違いには戸惑うし、感情的な軌道修正を余儀なくされることも多々ある。
自分が思っているような人間ばかりではなくて、社会にはイレギュラー要素が満ち溢れており、それに伴う自分の心移りや感情の起伏だって立派なイレギュラー要素だ。
結局、頭の中で知ったつもりになっていること、というのはあまり意味がない。
どんなにIQの高い人だってなれない業務は手間取るだろうし、シゴトについて言えば向き不向きというものもある。
やってみないとわからないことしかない、と思うようになった。
自己否定的、内省的、反省的、責任感を感じすぎたり、悩み過ぎる。
そんな事から逃れられない人たちはとても純粋だと思うし、そういう種の性格はDNAに刻み決まれてる宿命だと思う。
そういった社会不適合要素からバランスを取る為にも「挑戦」という名目で色々やってみるのがいいのだ。
落ち着かない気持ち
人に優しい言葉をかけられたら嬉しくなるし、
予想外の表情や言葉をかけられるとがっかりしたり不安になる。
人の態度にこうだったらな、という予想を立てて行動するのはよくない。
期待に沿わないものが自分に帰ってきた時に色々悩んでしまうからだろう。
いいところをみせようとか、褒められようとか、
そういった自意識も結局はつらい気持ちを生み出してしまう。
素直に好きなことを努力し続けられることってとても大事だと思う。
嫌いなものや人からの称賛の為に対してやりたくもないことを無理して頑張っても、それって自分のプラスなのだろうか、と考えてしまう。
何事も経験だ、という魔法の言葉に惑わされて、実のところ時間を浪費していただけだったということがないようにしたい。
自分にあったシゴトってなんだろう...。
アラサーには時間がない
最近思うのは、この歳になると「そうしたい」と思っていてもそうならないことのほうが多いということ。
助けてくれる人や人との接点が希薄になってくるから自分にとって新しい展開を望みにくくなる。友達をつくるのも億劫になる。
まともに生活してたら多少お金は貯まるかもしれないけどね。
でもそれって若い日の時間とエネルギーに比べたら大した価値はないと思う。
若さとかエネルギーの条件を年齢に委ねてしまうこともないのだが、自分はもういい年なのだからと自らを定めて行動の幅をせばめているのだろうと思う。
色々なことがマンネリ化してワクワクするような出来事が皆無である。
何かするにせよ初動は遅いし、年齢のせいで周りの目を気にしたりし過ぎて思うようにことが運ばなかったりする。で、すぐ諦める。楽な場所でヌクヌク と楽なことだけするようになる。適当に友達とゲームして愚痴って終り。
日々失われていく貴重なアラサーの時間とはなんぞや?
20代前半の若者のように向こう見ずに使える時間ではなくって、それなりに計画的に絞りだした目的を達成するか、あるいはそれに近づくための時間でありたいと思う。
今すべきことは残りの時間でどういう自分を創っていきたいかをイメージして、その素地を固めていく作業をしなければいけないし、そこに時間を惜しんではいけないのだ。
寒くなったね
自分の姿を容姿の面でも、言動の面でも多面的に観察する、ということは自意識を薄める効果があるなぁと思います。
自分の、人から見た姿形、印象といったものが実は自分でよくわかっておらず、それが自信過剰や不安に繋がる事が結果として多々あるのではないか。
その上でとらえどころのない謎というか、囚われの罠といったようなもの。完全な球面を求めようとするが、実のところ一部のシワによってバランスが取られている、といったようなこと。
そういうものに人生の大半を浪費するのはいかがなものだろうか。
少し違ったアプローチをするのならば、それは果たして人生をかけて浪費するに値する事柄であろうか、と思う。
真理の探求とか哲学といった分野に生涯を捧げるような人間であれば話は違ってくるのかもしれないが、そういった一方向性のものと現状は相反しているので、やっぱりそういうことに時間を使い続けるのは勿体無い。
で、現状というのは混乱なわけだけれども、それでも道筋は整えられてきている感じがする。ゴリ押しと周囲の理解があって次のシゴトに繋がって行くことになったが、当然自信なんてないし、よく思ってない人もいるだろうとか、ごちゃごちゃ考える。
掛け持ちしたいけどもう片方のバイトもまだ決まってない。
それは急がなくてもいいな、とは思うけど面接に行きまくる位しないとなぁ。
就活してる人も沢山いるし、みんなあれやこれや調べてきてるし本気で受かってやろうっていうオーラ?を感じる。
筆記やロールプレイング、沿革からポリシーまで割りと徹底した説明会に面接などをさらりとやってのける感じ。常時ピリついた感じ。もうイヤだけどね、みんな必死にやってるのは伝わってくるけど、こっちのなめた態度も伝わってるだろうな。
安定した職場で楽しくあれこれ余裕をもって考えられる人たちがいる一方で、四苦八苦しながら愚痴りながらも就活を繰り返し、努めてはこじれて辞めてを繰り返す人たちもいる。一体なにがそんなに違うっていうのかねぇ?
アイデンティティの揺らぎを抑えるのは居場所と安定だが、それは停滞と焦りでもあるからして、こう、もっと社会の中での自分というものにスポットしてその上でしっかりもう一度自己分析していく必要を感じてるよね。
前進あり
ここ数日の間に今後の進展についてちょっとした急展開あった。
感じたこととか、夜に適当にまとめます。